もし、コストなどの制約をいったん無視して、AIがあらゆる能力で人間を完全に上回る未来が来るとしたら、その世界で人間は何を頑張ればいいのだろう。
文章を書くのも、分析するのも、アイデアを出すのも、判断するのも、人間よりAIの方が優れている。しかも、それをほとんど無限に、疲れることなく実行できる。そこまでいけば、人間がわざわざ時間をかけて勉強し、経験を積み、能力を磨く意味はかなり薄くなる。
もちろん、人間の価値は仕事の能力だけで決まるものではない。ただ少なくとも「より良い仕事をするために努力する」という話に限れば、AIがすべてにおいて人間より優れている世界では、その努力をどこに向ければよいのか分からなくなる。
だから私は、AI時代に人間が努力する意味を考えるためには、ある意味で「AIは人間より劣っている部分がある」という前提が必要なのではないかと思っている。
では、AIはどこで人間に劣るのか。
ここを探すことが、これからかなり重要になる。
AIにできることが増えるほど、「AIに何ができるのか」に注目が集まる。新しいモデルが発表されるたびに、コーディングができる、研究ができる、デザインができる、エージェントとして仕事ができる、といった能力が示される。
もちろん、それ自体は重要な進歩だ。
ただ、本当に知りたいのは「できた」という事実だけではない。
どのような条件ならできるのか。どこから失敗し始めるのか。何を人間が準備しなければならないのか。結果が間違っていたとき、それを誰が見抜くのか。環境が少し変わっても同じようにできるのか。
「できる」と「任せられる」の間には、かなり大きな距離がある。
デモではうまく動いても、前提が少し崩れると途端に失敗するかもしれない。答えを生成することはできても、その問いを立てること自体は苦手かもしれない。もっともらしい判断を出せても、その判断に責任を持つことはできないかもしれない。
こうした境界を一つずつ見つけていくことで、初めて「では、人間は何をするべきなのか」が見えてくる。
これは、AIの能力を低く見積もるという話ではない。
むしろ逆である。
AIを本気で使おうとするなら、その能力を過大評価することも、過小評価することも避けなければならない。AIが得意なことは徹底的に任せればいい。一方で、AIが不安定になるところ、人間の判断が必要なところ、そもそもAIだけでは完結しないところは、人間が担う必要がある。
その境界が分からないまま「AIならできる」と考えてしまうと、AIを使いこなしているようで、実際にはAIに振り回されることになる。
だからこそ、「AIに○○ができる」という発表を見たときには、少し疑ってみるくらいがちょうどいい。
ここでいう「疑う」は、「どうせできないだろう」と否定することではない。
「どこまでならできるのか」と問い直すことだ。
成功例だけではなく、失敗例を見る。平均的な性能だけではなく、性能が崩れる条件を見る。AI単体の能力だけではなく、その裏側にどれだけ人間の設計やデータや評価が必要なのかを見る。
AIの凄さを証明する材料ではなく、AIの境界線を探す材料として新しい技術を見る。
そんな姿勢が必要なのではないかと思う。
AIの限界を探すというと、どこか後ろ向きに聞こえるかもしれない。しかし実際には逆で、それは人間が次に進むべき場所を探す作業でもある。
AIができることを人間が続ける必要はない。
AIができないこと、AIだけでは完結しないこと、そしてAIを使うことで初めて人間が取り組めるようになること。その場所を見つけ、そこに努力を向けていく。
AIとの競争に勝つことではなく、AIとの境界線を理解すること。
もしかすると、それ自体がこれからの人間に求められる重要な能力なのかもしれない。