AIは「インターネット以来の大きな変化」と語られる。変化の規模という意味では、たしかにそうかもしれない。ただ、社会との結びつき方まで同じだろうか。
インターネット初期には、国家や大企業から離れた場所で、自分たちの空間を作れるという期待があった。それに対して、いま主流のAIは巨大企業の計算基盤から供給され、国家戦略や安全保障の一部として語られる。技術の新しさは似ていても、力が集まる場所は違って見える。
以下は2026年4月の公開時点での見立てである。AI全体の性質を決めつけるよりも、最先端の汎用モデルであるフロンティアモデルを中心に、近年の生成AIが広がった形を見たい。初期のインターネットとは、何が違うのだろうか。
国家起源の技術に育った、分散の文化
インターネットの初期文化には、既存の権力から距離を取ろうとする想像力があった。象徴的なのが、John Perry Barlowが1996年に発表した「サイバースペース独立宣言」だ。政府にはサイバースペースを統治する権利がないという主張には、ネットを既存の政治秩序から自立した公共圏とみなす期待が表れている。
ただし、インターネットを「最初から反国家の技術だった」とするのは正確ではない。ARPANETやopen-architecture networkingは、米国の国防研究を背景として発展した。国家が支えた技術の上に、後から分散、自律、参加を重んじる文化が育ったのである。
オープンな規格を使い、サーバーを立て、ページを作り、リンクを張る。掲示板、ブログ、動画、RSSなどを通じて、利用者は情報の受け手にも作り手にもなれた。誰もがそうだったわけではないが、自分も場を作れるという感覚は、ネットの魅力の一つだったと思う。
国家起源の技術でありながら、周縁から中心を揺さぶるものとして期待された。インターネットを特徴づけたのは、この組み合わせだった。
フロンティアAIを支える企業と国家
AIにも、オープンソースや個人開発の広がりがある。それでも、社会的に主役となっているフロンティアモデルの開発には、大量のデータ、計算資源、クラウド基盤、大規模な投資が必要になる。
Stanford HAIの2025 AI Indexは、近年の主要なAIモデル(notable AI models)の大半が産業界から生まれ、学習に使う計算量も急増していると整理している。こうしたモデルの開発では、初期Webでページやサービスを作る場合とは異なる規模の資源が求められる。比較しているのは利用の自由度だけでなく、基盤そのものを誰が作れるかという点だ。
国家との関係も近い。米国のAI Action Planでは、AIが国際競争と安全保障に関わる課題として扱われ、国防・情報分野への導入や、外国のfrontier AIプロジェクトに関する情報収集が位置づけられている。
企業側では、OpenAIが「OpenAI for Countries」を打ち出し、各国政府と協力してデータセンターや政府向けのAIを整える構想を示した。米政府との連携のもとで“democratic AI rails”を広げるという説明もある。国家の外で自律的に広がる空間というより、国家機能へ組み込む基盤としてAIが扱われていることがわかる。
接続と集約、利用者の立場
インターネットでは、異なる主体が共通の規格で接続できることに価値があった。情報は別々のサーバーに置け、それぞれの運営者が自分の場所を持てた。
対して、フロンティアAIでは、データ、計算資源、評価、運用基盤を集めることが性能や安定運用につながる。大規模に資源を集約できる主体が有利になるため、技術と経済の条件からも集中が進みやすい。
この違いは、利用者の感覚にも表れる。主流のAIサービスでは、OpenAIやGoogleなどが提供するモデルを使うことから始まる。プロンプトを書き、APIを組み込んで独自の仕組みを作る余地はある。それでも、基盤となるモデルの更新や提供条件は事業者が決める。自分で場を作る感覚より、更新される知能を受け取る感覚のほうが強い。
AI企業の発信には、技術による解放を語るインターネット初期の文化と重なるところもある。だからこそ、実際の供給構造が大企業と国家に近いことに、ちょっとした違和感がある。言葉の雰囲気だけでは、技術をめぐる権限の配置はわからない。
生成AIが普及した、プラットフォーム化後の世界
この違いは、AIだけの性質から生まれたのだろうか。インターネットも、検索、SNS、広告、アプリストア、クラウドを通じて、巨大事業者への集中を進めてきた。
近年の生成AIは、その基盤の上で普及した。クラウド、規制、安全保障、コンプライアンス、企業導入が、すでに存在する環境だったのである。自由な辺境としてのネットが後からプラットフォーム化したのに対し、主流の生成AIサービスは、そのプラットフォームを初期条件としている。
そう考えると、AIとインターネットを単純な対立として扱うのも違う。AIは、インターネットの分散的な理想をそのまま継ぐのではなく、集中が進んだ後の制度と設備を受け継いでいる。その出発点が、社会の想像力にも影響しているのだと思う。
管理を重視する統治との相性
AIは、社会を細かく観測し、予測し、指標を作り、資源を配分する統治と相性がよい。監督や自動化を含め、管理の対象と手段を増やせるからだ。
この性質は、一つのイデオロギーに限定されない。計画経済では配分の道具に、安全保障国家では監視や作戦支援に、大企業では業務管理や最適化に使える。それぞれ目的は違っても、状況を把握し、介入する能力を高めようとする点では共通する。
だから私は、AIを特定の政治思想に固有の技術とみなすより、さまざまな体制の管理能力を強めうる技術として捉えたほうがよいと考える。誰が何のために使うかによって、その効果も評価も変わる。
分散の余地と、これからの争点
もちろん、「AIは永遠に中央集権的だ」とまでは言えない。2025 AI Indexでも、open-weightとclosed-weightの性能差が小さくなったベンチマーク、小型モデルの性能向上、推論コストの低下が報告されている。
ローカル実行、オンプレミス運用、社内特化モデル、オープンモデルの利用が広がれば、利用者が基盤を選び、管理できる範囲も変わるだろう。大規模モデルの開発に資源が集中することと、その利用まで常に一社へ集中しなければならないことは、同じではない。
それでも、出発点の違いは残る。AIはインターネットと同じ規模の変化をもたらすかもしれないが、自律や参加を広げるという初期ネットの理想が、自動的に続くわけではない。
誰が計算資源を持ち、誰がモデルを配備するのか。評価基準を決めるのは誰で、利用者はどこまで監督できるのか。提供者への依存をどう変えられるのか。AIを「インターネットの次」と呼ぶだけでは、こうした権限の違いを見落としてしまう。