他者とつながりたい。しかし、他者と同じ存在にはなりたくない。同じ共同体に属し、理解されたいと思いながら、その中で誰とでも置き換えられる存在になるのは寂しい。人間は、この二つの欲求のあいだで自分を形づくっているのだと思う。
社会の魅力も、この緊張と関係している。価値観、言葉遣い、関心、立ち位置。同じ世界に暮らしていても、少しずつ重ならないところがある。その違いによって相手のことを知りたくなるし、一つの共同体の中にも、いくつもの見方が生まれる。
ところが今は、その「少しずつ違う」が育ちにくくなっているように感じる。人とつながる手段は増えたのに、なぜだろう。
近づくほど、似た表現が増える
SNSは分かりやすい例だが、気になるのは、それを含む技術の変化によって距離が縮んだことだ。遠くの出来事をすぐに知り、別の国や共同体の人とも同じ話題について語れる。かつてなら、それぞれの場所でゆっくり育った感覚や考え方が、初めから大勢の目に触れるようになった。
その空間では、どの立場が評価され、どんな言葉が受け入れられるかも見えやすい。自分の考えや表現を時間をかけて育てる前に、すでに支持されている型に合わせることができる。つながる相手は広がっているのに、語り方は似ていく。距離の縮まりは、こうした同質化を促すのではないか。
しかし、同じ型に寄るだけでは目立たない。多くの人が同じ場所に集まるほど、わずかな違いは見過ごされやすくなる。そこで今度は、強い言葉、極端な立場、奇抜な演出によって、自分を際立たせようとする。少しずつ育てた違いより、ひと目で分かる違いが選ばれる。
同質化と過剰な差異化は、矛盾しているように見える。けれど、大勢と同じ空間で評価されようとするなら、受け入れられた型に寄ることと、その型から大きく外れて目立つことは、同時に起こりうる。
違いの大きさより、違いのあり方
この感覚を図にするなら、円の中に立つ人々を考えるとよい。人々が少しずつ離れていれば、同じ円に属しながら、それぞれ違う位置から周りを見られる。自分が魅力を感じるのは、そうした散らばり方だ。
今の社会は、それに比べると、中心に密集する人と、そこで埋もれまいとして円の外へ飛び出す人が目立つように見える。そのあいだにあるはずの、互いを知ることのできる距離での違いが、見えにくくなっている。
自分が「差異の配置」と呼びたいのは、この違いのあり方である。多様な人が存在するだけでなく、同じ共同体の中で関わりながら、少しずつ異なる見方を持っていること。完全に一致する必要も、互いに理解できないほど離れる必要もない。その中間に、人柄や文化の面白さがあると思う。
つながりながら距離を保つ
だとすれば、必要なのは、違いをもっと目立たせることだけではない。自分の関心や考え方を育てるための距離も要る。
他者の存在をすぐに感じられる環境では、何を選ぶにも他人の評価が気になりやすい。つながりを保ちながらも、共有されている型に合わせる前に、自分がどう感じたかを確かめられる。そのくらいの余白を取り戻したい。
同じ話題を語れる相手が、自分とは少し違う見方をしている。その違いを消さず、かといって目立つために誇張することもなく付き合える。人間らしさは、そうした近さとずれのあいだにあるのだと思う。