人間は、他者とつながりたい存在であると同時に、他者と違う存在でもありたい。 同じ共同体に属していたい。しかし、その中で埋没したくはない。理解されたい。しかし、誰とでも置き換え可能な存在にはなりたくない。人間はこの緊張のなかで自己を形づくってきた。
本来、社会の魅力もまた、この緊張のうえに成り立っていたのだと思う。 人は同じ世界に生きながら、少しずつ違っていた。価値観も、言葉遣いも、関心も、立ち位置も、完全には重ならない。その微妙なズレが、人間の輪郭をつくり、共同体の厚みをつくり、文化の手触りを生んでいた。
しかし現代では、その前提が崩れつつあるように見える。 原因は、単に SNS ではない。もっと大きく、技術革新によって世界のあらゆる距離が縮みすぎたことにある。
通信は高速になり、情報は即時に届き、遠くの出来事がそのまま日常に流れ込む。人と人の距離、国と国の距離、社会と社会の距離、価値観どうしの距離までが圧縮されていく。かつてであれば、それぞれの共同体の中でゆっくり育っていた感覚や考え方が、今では最初から巨大な共有空間の中に置かれている。
その結果として起きるのが、まず同質化だ。 人は、近くなりすぎた世界のなかで、広く共有される記号や感情や語り方へ同期しやすくなる。どの立場が評価されやすいか、どの表現が受け入れられやすいか、どの話題に乗ればよいかが可視化されているからだ。すると、人は自分の輪郭を育てる前に、先に流通している型へと寄っていく。世界が広がったようでいて、実際には同じ中心へと引き寄せられている。
しかし、問題はそれだけではない。 全員が同じ空間に接続されるほど、普通の違いでは見えなくなる。少し違う程度では、その他大勢に埋もれてしまう。そこで今度は、目立つために、記憶されるために、過剰な差異化が起きる。強い言葉、極端な立場、奇抜な演出、文脈から切り離された自己主張。本来の個性ではなく、可視化されるための突出が生まれる。
つまり現代社会は、一方では中心への圧縮が進み、他方ではその中心と無関係な場所への逸脱も増えている。 みんなが似ていくのと同時に、違いを出そうとして違いすぎる人も増える。均質化と極端化が、同じ構造の両端として同時に進んでいる。
この状態を図にするなら、ひとつの円がある。 かつては、その円の中や周辺に、多くの人がそれぞれ少しずつ離れて立っていたのだと思う。互いに同じ世界に属しながら、適度な距離があり、その距離が差異を生んでいた。 しかし今は、多くの人が円の中心に密集しすぎている。あるいは、中心で埋もれないために、円と関係のない外部へ飛び出してしまう。中心への過密と、外部への跳躍。そのあいだにあったはずの、豊かな散らばりが失われている。
ここで失われているのは、多様性そのものではない。 より正確には、差異の配置だ。 同じ共同体の中にありながら、少しずつ異なっている。その状態こそが、本来もっとも魅力的だった。人格にも、文化にも、思想にも、その「少しずつ違う」が必要だった。しかし距離が縮みすぎた社会では、その中間が痩せる。みなが同じになるか、逆に違いすぎるかのどちらかに振れやすくなる。
現代社会の貧しさは、単なる同質化ではない。 また、単なる多様性不足でもない。 近すぎる世界のなかで、差異が自然に育つ余白が失われていることにある。
人間の魅力は、完全な一致にあるのではない。 かといって、完全な断絶にもない。 同じ世界に属しながら、それでもなお少しずつ違う。その近さとズレのあいだにこそ、人間らしさがある。
だとすれば、これから必要なのは、ただ多様性を叫ぶことではない。 世界の中に、もう一度、適切な距離を取り戻すことだ。 他者とつながりながら、他者に呑み込まれない。社会に属しながら、社会のテンプレートに回収されない。そうした距離があってはじめて、人間は「ただ同じ」でも「ただ変わっている」でもない、自分自身の輪郭を持てるのだと思う。