最近、DeNA をめぐる議論を見ていて、改めて考えたことがある。

南場智子さんのような起業家は、優秀な人材を集め、大きな会社をつくり、事業を成長させてきた人物として評価されている。起業家としてすごい、経営者としてすごい、という見方自体は理解できる。資本主義のルールの中で大きな成果を出すことは簡単ではない。

ただ一方で、そこで生まれているビジネスは本当に社会的に価値があるのか、という疑問が残る。

違法なことをしていると言いたいわけではない。ユーザーが自分の意思でサービスを使い、お金を払っている以上、それは市場における需要の一つではある。だが、情報や判断力、時間、可処分所得に制約のある人たちから、いかに課金や消費を引き出すかという構造になっている場合、それを単純に「価値を提供している」と呼んでよいのかは考える必要がある。

これは DeNA だけの話ではない。Meta も ByteDance も、あるいは多くのゲーム、SNS、広告、エンタメ系プラットフォームも同じ構造を持っている。人間の注意、承認欲求、依存性、暇つぶし、射幸心のようなものを巧みに捉え、それを収益化する。便利さや楽しさを提供している面はある。だが同時に、人々の時間や判断を奪い、必ずしも本人の幸福や社会全体の厚生につながらない消費を拡大している面もある。

利益と社会的価値は別の指標である

問題は、現代のビジネス評価が「どれだけ儲けたか」「どれだけ成長したか」「どれだけ時価総額をつくったか」に偏りすぎていることだ。

利益は重要な指標ではある。利益が出ているということは、少なくとも誰かがそのサービスにお金を払っているということだ。だが、利益が出ていることと、社会にとって望ましい価値を生んでいることは同じではない。

人間の弱さをうまく利用することでも、利益は生まれる。むしろ、脆弱性を正確に突いたビジネスほど、強い収益性を持つことがある。広告で注意を奪う仕組み、依存性を設計に組み込んだゲーム、不安や承認欲求を増幅させる SNS のアルゴリズム。どれも法に触れない範囲で巧みに作られていて、PL の数字だけ見れば模範解答に近い。

「金を儲けたら勝ち」という世界観に違和感があるのは、ここだ。利益という指標は中立に見えて、実は「人間のどこに刺さるか」を問わない。だからこそ、脆弱性を突いた事業ほど効率的に勝てる構造になっている。

「すごい会社」を評価する軸を増やす

起業家や企業を評価するとき、本来は「どれだけ儲けたか」だけではなく、もう少し違う問いも必要なはずだ。

誰のどんな課題を解決したのか。その収益はどのような行動変容から生まれているのか。ユーザーは本当により良い状態になっているのか。社会全体で見たときにプラスなのか。

もちろん、この線引きは難しい。娯楽にも価値はあるし、ゲームや SNS が人を救う瞬間もある。すべての消費を「搾取」と呼ぶのは雑だ。だが逆に、ユーザーが自発的に使っているから、売上が伸びているから、雇用を生んでいるから、という理由だけで社会的価値を正当化するのも雑だと思う。

ユーザーの自発性は、本人が完全な情報と冷静な判断力を持っているときにだけ純粋な「需要の表明」になる。注意残量がほぼゼロの人、時間に追われている人、孤独な深夜帯の人、依存性を設計された UX に触れている人 — それぞれの場面で出てくる「自発性」は、構造的に誘導された自発性でもある。

ビジネスの成功と、社会の善

特定の会社を断罪したいというより、もっと根本的な疑問だ。

優秀な人たちが集まり、資本と技術を使って、本当に解くべき問題に向き合っているのか。それとも、人間の弱さや情報格差を収益化することに最適化されてしまっているのか。後者であっても、資本主義の中では成功者として称賛される。そのことに違和感がある。

ビジネスとして成功していることと、社会にとって善であることは、重なる場合もあるが、必ずしも一致しない。

だから、起業家や企業を語るときに、「すごい会社をつくった」「大きく儲けた」という評価だけで終わらせたくない。その事業は、人間をより自由にしているのか。より健全にしているのか。社会の資源をより良い方向に使っているのか。

その問いを抜きにして、ただ成功を称賛することには、どこか危うさを感じている。